| 2011.10.15 【気功講義|お知らせ】
人間国宝・中村芝翫さん死去、83歳
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「階み」の理論編の中で、世界中で、完璧な歩き方の出来る六人に上げてあった中村芝翫さんがお亡くなりになりました。
数少ない、伝統を伝えられる人がまた一人いなくなって、残念です。
長く生きることで役割を果たす方もいらっしゃれば、立派な業績を残された方であっても、あっけなく短い生涯を遂げる方もいらっしゃいます。
神々は、肉体を持って生きることを単なる上昇のための期間としか捉えていません。
早々と亡くなっても、神上がることが出来れば目出度いことなのです。
ご自分が、ご自分の役割をしっかりと果たせているか一緒に見直してみましょう。
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古風で端正な女形として知られた歌舞伎の人間国宝で、文化功労者の中村芝翫(なかむら・しかん、本名中村栄次郎=なかむら・えいじろう)さんが10日午前0時50分、肝不全のため東京都内の病院で死去した。83歳だった。5歳で中村児太郎を名乗り初舞台を踏み、67年七代目芝翫を襲名。6年前に肝臓がんが発覚し、病と闘ってきた。最期は長男の福助(50)、次女の夫・勘三郎(56)、孫の児太郎(17)らが見守る中、天国へと旅だった。同日夜には都内の自宅で仮通夜が営まれ、約150人が弔問に訪れた。
歌舞伎界を支えた名女形が逝った。
名古屋・御園座で公演中の長男・福助は、公演を終え、亡くなる直前の10日午前0時近くになって東京都内の病院に到着。10分ほど会話を交わした。福助の長男・児太郎は「父を待っていたかのようでした。神様って優しいなと思いました」と最期の父子の対面を振り返った。福助や勘三郎、長女、勘三郎の妻・好江さん、児太郎ら孫、ひ孫らも看取(みと)った。次男・橋之助(46)は京都での公演のため看取ることはできなかったが、妻で女優の三田寛子(45)が携帯電話を芝翫さんの耳元にかざし、最後の会話をした。
2005年、芝翫さんに肝臓がんが発覚。本人への告知はされないまま、抗がん治療が施された。うすうす気付いていた様子も見受けられる中、舞台に上がり続けた。今年1月の「新春大歌舞伎」を途中降板したが、8月の「花形大歌舞伎」は最後まで務め上げた。9月1日に出演した「秀山祭九月大歌舞伎」(新橋演舞場)が最後の舞台となった。
出演後、すぐに入院。何度か病状は悪化したものの、一時は退院できるのではと思えるほどの回復ぶりだった。
大の競馬好きでも知られる芝翫さんは、先日、入院中に100円で買った馬券が最後は80万円になったという。勘三郎が「『お前たちには3000円しかやらない』と言われて、みんなで『ケチだ』って笑っていたんですよ」と明かした。病気の回復を願って、子や孫たちが千羽鶴ならぬ、馬の折り紙を折っていたという。
生前、芝翫さんは棺に「花なんか入れてくれるな。入れたらばけて出るぞ」と話していたそうで、その言葉通り、これまで折ってきた2千数百個にもなった馬の折り紙を入れる予定だ。
初舞台を踏んだ5歳で父・五代目中村福助を亡くし、孤独とも言える環境で生きてきた芝翫さんだが、最期は大勢の家族に見守られて安らかな眠りについた。
ますだようぶん先生の気功講義は下記アドレスをご覧ください。
http://hinomoto-coolkame.com/ ←パソコンから
http://ameblo.jp/hinomoto03/ ←携帯から
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| 2011.05.28~06.01 【気功講義|ひだの風景】
七夕岩 1~4
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「元極妻母さん」
の居る高山市松之木町に、七夕岩という所があります。
その説明は次の所に詳しいので、リンクします。
http://www.geocities.jp/seijiishizawa/NewFiles/matunoki.html
また、現地の案内板には次のようにあります。
七夕岩
毎年8月6日夕、西の雄岩より80メートル隔たる東の雌岩へと張り渡される大しめ縄は、
両岩のかがり火と百個近くの飾り提灯に映え、その雄大さは、正に天下一である。
この七夕は昔から男子が出生すると藁馬をかざり、また縄の保ち具合で作柄を占ってきた。
縄を張らなかった年には病気が大流行したという言い伝えも残っている。
この行事がいつ始まったかは不明であるが、
元禄検地(1695年)に於いて既にこの地を七夕と称しており、
延享3年(1746年)文書に於いても「往古より松之木七夕と申し」とある。
何百年の間、人々はこの七夕に様々の願いを託し続けてきたのである。
昭和63年3月吉日 高山市
ここがなんなんだと言われると、その回答は次回に・・・・・
つい先日、 「鬼ヶ島に行きなさい。」と、言われました。
「鬼ヶ島は、鬼のいる島ではなく、一つの重要な鬼神がいるところです。 その鬼神に出会い、鬼神が指示するとおりに動いて欲しいと伝えておきます。」
「鬼ヶ島は、香川県にあるのではありません。 飛騨高山のあるところ、鬼神が祀られている場所にあります。 今日、早いうちに鬼ヶ島に、行きなさい。 早いうちに鬼ヶ島に行き、鬼ヶ島の鬼神が言うとおりに動いてください。」
「鬼のような神ではありません。鬼です。 鬼ですから、多くの生命を奪う仕事をしてきました。」
「鬼ヶ島の鬼は、多くの生命を奪う仕事をこれからもします。 悪人だけではありません。もちろん、悪人の生命も奪います。 生命を奪うときに、必ず起きることがあります。それは、コウを焚くことです。」
「コウの香りは誰にもわかりませんが、 あなたがたには、その香りが薫り高くその臭いがすることでしょう。」
「コドモの時には、高い死亡率によって、死をもたらしてきました。 その仕事をこの鬼がすることになっています。 七夕岩を遠くから眺めるのではなく、出来るだけ近づいて、話を聞いてください。」
どうも、ここ高山の七夕岩が、鬼ヶ島のようです。 鬼なんかと話したくありませんよ。
私が鬼に会って、何をするのでしょうか? 「七夕岩には、赤子が生まれると、女子は糸巻き、 男の子は馬の人形を綱にぶら下げ、飾る習慣があった。 その政をしなかった年には、病気が流行ったのだ。」
七夕岩に来ました。 鬼ではなく、神が出てきてお話になりました。
このことの起こりの正しい認識が出来るよう、ここに来たわけをこれから話すことにします。 鬼は、我々の部下になりますから、私は鬼ではありません。
鬼の神々を使っている神です。 鬼神が、この岩にいて子供達の命を奪い、さらに多くの人々の命を奪ってきました。 そうしたことが、ここしばらく数百年は許されることなく、平穏に経過してきたのですが、 今後は、また鬼達がコドモを含めた多くの人の命を奪っていく仕事をしていくことになります。
さきほど、伝えたようなことが、この地方ではずっと行われてきましたが、 子供達を殺さないで欲しいという人々の願いと、時節の到来によって、中断されてきました。 終末の世を迎えて、又それらが開始されることになりました。
「鬼の神々がめざめ、ここから多くの神が旅立っていきます。 ひろく、鬼ヶ島といわれるところには、鬼の役割をする者が、住まいしておりました。 そして、今は、ここに集約して住まいしています。 時の流れ、時節の流れで鬼が活躍することが無かったわけですが、 今、ここから旅立ちます。」
「このことは、世の初め、神々の計画ですから変える事は許されません。 少しでも多くの者達がすくい上げられるよう、貴方が意念をしてください。」
「我々は、この仕事をこれから、全世界でしていくことになります。 計画とは言え、罪のない者も死にゆく事になるのですから、 誠に忍びない仕事をしなければなりません。」
「不幸な子供達の霊を慰めるために、親たちは多くの嘆きと悲しみをこの岩に投げ入れました。 その思いが、この岩に封じ込められています。 この意念を払いのけて、今後も大きな嘆きが払いのけられるように、意念をしてください。」
こんなんばっかだなぁ~~。 負の想念を、あっちこっちで祓って歩くのが、私の仕事かいな???? 勘弁してほしいなぁ!!!!!
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| 2010.12.26~12.27 【気功講義|生き方】
終末と命 1~2
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「元極ニュース」の新年号に書いた記事を、お送りします。
新年にあたり、そして、終末の時がますます近づいている年頭に、一つ重すぎるお話をいたしましょう。
昨年、脳死と判定された者の家族の同意により、臓器提供が可能となる法律が出来ました。
すぐさま我々の身近でも、実際にそれが行われる事を経験したのです。
そこで、もう一度この「脳死」について、どういう事なのか詳(つまび)らかにしていきたいと思います。
お医者さん方は、コントロールタワーである脳が停止をしたのだから、
コントロール不能の肉体はもう死んでいると判定してもおかしくないと考えているのでしょう。
確かに肉体は脳によってコントロールされています。
よって、肉体の中で一番エネルギーを消費するのは、脳である事は、医学的にも明らかになっています。
その事実が、真実に迫る大きな鍵となります。
人の身体は、それを守るために免疫力など、幾重もの防御機能を持っています。
それら幾重もの防御機能を使い尽くしても、
生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められたとき、人は最後の防御機能を発動します。
それが、脳の機能停止なのです。
肉体が最大限に復活のためのエネルギーを使う事が出来るよう、脳を一時的に停止し、肉体の回復を図ります。
しかし、それはぎりぎり精一杯の「徳俵(とくだわら)」とも言える行為であるが故、
助かる確率は非常に低いと言えます。
低いとは言えますが、そこから生き返った例が何例もあるのです。
その生き残るための本人ぎりぎりの戦いを、家族が了解したとはいえ、
終焉させても良いものか、もう一度本当の事実を知った上、議論していただきたいのです。
如何に家族といえど、いや、家族だからこそ本人の了解もなく、命を絶ってしまって良いものか?
こうした事を鑑みて、我々は基本的に「脳死」による臓器提供には積極的にはなれません。
けれども、前述の身近な例では、ご家族の延命の施術依頼をお断りしました。
それは、以下のような理由からです。(つづく)
「元極ニュース」の新年号に書いた記事の続きです。
人が生きる期間・寿命というのは、生まれるとき既に決められています。
それは最大限生きて、いついつまでと決定されています。ある特別な場合を除いて、
どんな事があっても、それを超えて生存する事はありません。
しかし、生き方によって短くなる事は往々にして存在します。
我々の功法とて、決められている寿命以上に生かす事など不可能です。
ほとんどの者が、自ら縮めた命を本来生きられるであろうところまで最大限伸ばす事は可能です。
日之本元極は、そうしたお手伝いをしているのです。
今回の依頼者の場合、最初から決められていた寿命と、
今迫っている寿命の差がほんの数週間しかなかったので、お断りをしました。
費用対効果がないからです。
ほんの一、二週間の延命のために施術費用はいただけません。
それでも、親戚である修練者から薦められ、
ご家族は病院内のベッドに場創りセットをおいたり、カードなどの日之本パワーグッズや、
天のまなみなどを使っていただき、ほぼ最大限にその寿命を伸ばされました。
そして最後に、臓器提供を決められたのです。
ご家族が場創りセットの結界の中に入ると、自らの疲れも改善していく事などを体験され、
我々の言っている事とその作用の有効性を信じて下さるようになりました。
後日、残されたそのご家族からお三方が受講される事になりました。
この例のように寿命を生ききる人は、非常に希有(けう)な事なのです。
自らの決まっていた寿命を全く生ききった場合、
残された肉体は単なる物質といえますから、臓器提供は悪いとも言えません。
もちろん、ご家族の心情的なものは別問題です。
しかし、まだ引き延ばせる寿命を持っているほとんどの事例では、
「脳死」の時点での臓器提供は殺人と言わざるを得ません。
そうした本当の「脳死」状態とは何かという事を、
皆が理解して更なる議論に繋げていってほしいと思っています。
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| 2010.11.11~11.12 【気功講義|神仏との出会い】
ショパンは神になっているか 1~2
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ワルシャワで、もう一箇所行きたいと思ったところがあります。 ショパン博物館です。
行きたいと思ったからには、ショパンは神になっているはずだと考え、直接聴いてみることにしました。 やはり神上がっておられ、以下がその返事です。
--------------------------------- ポロネーズ第6番変イ長調Op.53「英雄」が代表的な作品として有名ですが、私の大好きな曲でもあります。
(ポロネーズは、ショパンの祖国ポーランドの貴族の間に伝わる民族舞曲で、
比較的テンポの遅い威厳に満ちた格調高い3拍子の音楽です。ショパンは生涯で、
18曲のポロネーズを書いたと言われています。) この曲が私の支えとなって作曲を構成していきました。 わたしが、作曲家として名をなしているのは、それは時の流れを変える音楽が、 世の中に要求されていたにすぎません。
この曲が私の支えにもなりました。
この土地に生きた者の特質があたえられた神のしらべです。 降ろされた曲を私が書き写しただけのことです。 ただ、ただ、それだけのことで、私に神から与えられた仕事です。
人が私を偉大だと言いますが、それは、降ろされた曲をただただ、 真似て演奏してそれを作曲して、自分の仕事として見せかけていただけのことです。
見せかけの姿ですから、恥ずかしいこと極まりがありません。 私は、そのことを喜びに思っていました。 神に与えられた仕事を忠実にこなしていたことが、 今の世の中でもてはやされているだけのことです。
役割を与えられて、それを忠実にこなしたことが、わたしの仕事の、そして人生の全てでした。 そもそも作曲など出来るわけもありません。 私の才能が、生み出したことでもなく、私の喜怒哀楽に応じて、神々がそのつど、授けてくださった。 それだけのことです。
ただ、私がなしえたことは、降ろされた曲を忠実に、ひきこなす努力をしました。 日々努力をして、はやく鍵盤をたたくことの努力をしました。 その努力が報われたことは、最高の喜びです。
あなたが、来てくださいますこと喜びにします。館は、人ごみの多いところです。 館の中でなくとも、一目、わたしの顔を見ていただけたなら喜びとします。
(ここまで、博物館に行く直前に、ショパンの神に可否を問いました。)
---------------------------------
(つづく)
行ってみるとショパン博物館は閉まっていました。
よって、その入り口でショパンの神にお話を伺ってみました。
----------------------------------- お伝えします。 私の生きた時代は、もっと生き生きとしたリズムにみちていました。
「転ばぬ先の杖」これが、私の生きた生命力の全てです。
手の先に杖を持ち、それがペンとなって楽譜を書き、それが私の生命力の源となりました。 降ろされた楽譜を書き写し、鍵盤を叩いて楽譜に書き下ろし、世の中に広めていきました。 それは、美しい世の中だったから実現したことです。 現在の喧噪の中では、実現しなかったことです。
騒々しい、喧噪の中で私の曲は生まれません。 ゆったりとながれる美しい時代の背景があったからこそ、誕生したのだと思います。
今日ここに、あなたを迎え、あなたが来てくださったことで、騒音の中の曲想を授けます。 このことを許されました。
騒音の中でも安らかな曲想が、あなたの手元に手渡されます。 それを才ある者が、曲として現していくでしょう。 この喧噪たる世の中で、心も体も癒される音楽があなたに手渡されて、 それが日本で拡がり、日本から世界へ 優麗なる「音」の世界が再現されることを望んでいます。
優麗とは、優雅で、麗々しいようすのことです。
-----------------------------------
いつか、才能のある方が私の前に現れれば、伝音によってショパンの神から戴いた力をお渡しできるでしょう。
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| 2010.11.06~11.08 【気功講義|神仏との出会い】
キューリ夫人 1~3
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この9月にポーランド、チェコに行ってきました。 神に呼ばれて行った所用を終えた後、回ったところがいくつかあります。 今からご紹介するキュリー夫人博物館も、そのひとつです。
ワルシャワ中央駅から、クラクフ郊外通りを抜け、旧市街からバルバカン(赤煉瓦で作られた円形の砦)をくぐって進むと、 小路の右側にある小さな建物に、金属製のプレートが目印なだけの簡素な博物館です。
実際その前を何度か往復して探しても判らなかったほどです。
A5の大きさの一枚ペラの紙切れだけでキュリー夫人を紹介した、そこで戴いた文を以下に転載します。
--------------------------------- マリヤ・スクオドフスカ・キュリー(1867-1934)は、1967年11月7日にポーランドのワルシャワに生まれた。 彼女ははじめ寄宿制の女子私塾で教育を受け、後にワルシャワの官立女学校を金メダルにて1883年に卒業した。
1884年から1891年まで、彼女は家庭教師として働きながら、大学入学資格試験の勉強を続けた。その頃彼女は、ワルシャワの農工業博物館の研究室にて化学分析の訓練をし、研究作業に習熟するようになった。
1891年、彼女は理科大学(ソルボンヌ)で学ぶためにパリにやって来た。
彼女は1893年に物理学の学資試験に合格し、翌年には数学の学資試験にも合格した。
1895年、彼女は科学に対する興味と愛を共有したピエール・キュリー
(1859-1906)と結婚した。
つづきは又明日・・・・・
キュリー夫人博物館で戴いた紹介文の続きを転載します。
---------------------------------- キュリー夫妻のウラン功績放射能の研究は、1898年に強い放射能を持った二つの新化学元素、 すなわちポロニウムとラジウムの発見に導いた。
1903年、マリヤ・スクオドフスカ・キュリーは放射性物質の研究により物理学博士号を授与され、 同時に彼女の夫とヘンリー・ベクトルと共にノーベル物理学賞を授与された。
ピエール・キュリーが1906年4月19日に事故により亡くなった後、 マリヤ・キュリーはソルボンヌ大学物理学部の彼の講座の後継者として指名された。
1911年に彼女はノーベル化学賞を金属ラジウムの分離に関する業績によって受賞した。
マリヤ・スクオドフスカ・キュリーは、1912年にラジウム研究所をパリに設立するために努力した。 彼女は亡くなるまで研究所の物理化学部長を務めた。
第一次世界大戦中、彼女は移動X線班を組織し、前線にて自ら装置を操作して傷病者を検査し、又放射線技師を訓練した。
1918年から1934年の間に彼女はポロニウム、アクチニウム、トリウムの放射能を研究し、 同時にパリのラジウム研究所にて運営と教育の務めを果たした。
フランスに深く関わった一方で、マリヤは常に祖国と緊密な連絡を取り続けた。 彼女の努力と指導によって、ポーランドの放射能研究所は放射能の研究を展開することが可能となった。
彼女の先導と雅量により、人間の命を救い健康を守るため、 ラジウムの治療効果を第一とするワルシャワのラジウム研究所が1932年に創立されることが決定した。
マリヤ・スクオドフスカ・キュリーは、長年にわたる放射性物質の被爆によって引き起こされた白血病のため、 1934年7月4日にフランス・サボア地方のサンセルモで亡くなった。
彼女は科学的業績によって広く認められ、数多くの賞や表彰、そして多くの大学からの名誉博士号、 学会からの名誉会員資格を授与された。
彼女の業績は、放射線科学の基礎を形成し、物質構造の統一見解を発展させ、 又世界に原子核の時代を開くことになった。
ポーランドの偉大な同胞に対する経緯表明として、キュリー夫人生誕100年を記念して、 彼女の思い出に捧げるユニークな博物館が設立されることになった。 博物館は、ワルシャワのフレタ通り16番地に位置し、ポーランド科学協会によって運営されている。 マリヤ・スクオドフスカ・キュリーは、ポーランド化学協会の設立者の一人であり、また名誉会員でもあった。
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キュリー夫人博物館内の展示物です。
博物館内に入ったら、キュリー夫人からのお話がありました。
我々は、人から神になられた意識に限り、お話しすることが出来ます。
単に死んだだけでは、話すことが出来ません。
さすがにキュリー夫人は人類に多大な影響を与えた方だけに、神になっておられたわけです。
無精な私が行ってみようと思ったわけが判りました。
そのキュリー夫人からのメッセージを書いてみましょう。
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粗忽者の私は、数々の失敗を繰り返して、その失敗が成功となって、実験の成果に現れました。
私が、できたことは、粗忽者のゆえに、数々の実験を繰り返して、分析をして実験を繰り返す。
ただただ、その努力を繰り返すことでした。
元来の粗忽者ゆえ、かずかずの失敗をして、その失敗が次から次に成果となったわけです。
この私の失敗は、神の導きによって知らされた結果であったと、後から判りました。
私は、努力することを嫌いではなく、毎日が充実していました。
その発見した放射線が、人の世の発展のために役立つであろうと確信して、努力を惜しまなかったのです。
人を殺す兵器となった現在では、残念きわまりない気持ちを持ちつつ、
わたしのそれも定めであると、道を究めさせてくださった神々にお礼を申し上げているところです。
私の人生は、仕事を生きるしか道がありませんでした。
他のことに喜びを見いだすことが出来なかった私は、
不精者で女性としては気のつかぬ仕事しかできないの世間の狭い、そんな道を歩んできました。
全く粗忽者の人格としてはたどたどしい、生き方をしてきました。
しかし、繰り返して一つのことに集中する。熱心に考える。
このことが許された私はしあわせでした。
主人の残した功績を私が懸命に集めて、それを深めていく喜びを感じています。
人のために生きることは身を捨てるということですが、私にとっての身を捨てるということは、
他のことに気を配らずとも良い、科学に没頭する生き方でした。そんな生き方が出来て、
一心に一つのことを追求できた私の生き様は、普通の生き方とは違い、
うらやましがられる生き方とも違いますが、とても充実した人生でした。
分子科学で成功を収めましたが、これも導きによって、懸命に生きる道を与えられ、
懸命に努力する道を与えられ、毎日の研究に努力する道を与えられて、
毎日の研究を与えられて、発見と喜びを与えられました。
しあわせな生き方を与えられた私は、極めて良い人生を歩くことが出来ました。
当時としては、新しい発見にみちみちていて、鉱石からエネルギーのもととなるウランが発見出来たときには、非常な喜びでした。
これが、世界の発展に役立つと思っていました。
世界が発展されることに使われることを望んでいました。
世界の発展は、無情です。この無情なることをわれわれもまた、あなたがたに、導いているのです。
発展を信じて研究を重ねてきた者の科学の進歩とは、破壊と破滅の道を歩くということを私は知っています。
このこともまた、あなた方もすでにご存じのことだと思っています。
私は、科学の研究と努力と発展の喜びの連続でいたが、
それがまた、破壊と破滅の道を進むことになることをあなた方は知らねばなりません。
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実験器具類も非常に簡素な物ばかりでした。
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| 2010.11.01~11.04 【気功講義|神仏について】
金峯山寺(きんぷせんじ)金剛蔵王権現 1~3
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奈良で平城遷都1300年祭が開催されています。 それに合わせて、寺社各所で秘仏の公開が盛んです。 表題の「金剛蔵王権現」も、12/9まで公開されているようです。
この仏様達を見たのは、確か2001年のことだったと思いますが、役行者没後1300年祭の折、 近鉄が主催で、修験道の開祖と言われる役行者(えんのぎょうじゃ)由来の秘仏が一斉に公開されました。
この1、2年ほど前から、何故かいろんな所で役小角(えんのおづぬ)に縁がありました。 当時、全くこの人(人と言って良いのかどうかも不明ですが・・・)の存在を知らなかった私は、 引かれるようにして、この秘仏を見に行くことにしたのです。
金峯山寺の蔵王堂(この中に金剛蔵王権現が安置されている)というのは、 広さ36メートル四方、高さ34メートルという非常に大きなお堂です。 役行者が感得したとされる金剛蔵王権現は、このお堂の中に三体あります。
上にて、「この仏様達」と言ったのは、そういう意味でした。
過去、現在、未来の三世に渡り、我々をお救いいただくと言われます。 中央の像は7.3メートルにも及び、国内最大級の大きな秘仏です。
(つづく)
ここ金峯山寺に訪れるには、近鉄吉野駅からロープウェイに乗って、その後徒歩10分ほどです。 そんな山の中に金峯山寺はあるわけですから、近くにホテルなどありません。 そこで、そのときは近くのお寺の僧房に泊めていただくことにしたのでした。
夕方に蔵王堂に着いたときには既に閉じられており、翌朝ご拝観することとしました。 僧房に着くと、なんと他には宿泊するものはない模様。
食事を終え、床に案内されてびっくり。 百畳もあろうという大きな部屋の真ん中に寝床がたった一つだけ敷いてあるではありませんか。 ただでさえ、おっかないお寺の中で大きな部屋の中にたった一つの寝床。 想像できますか?
電気を消し、床に入ったものの、なかなか寝付かれません。 暫くして、ふと気がつくと天井から私を見つめている者がいるではありませんか? その瞬間、「あっ、役行者だ。」と、瞬間的に理解できました。
そうすると、次々に別の人が二人、のぞき込みました。 「こいつは何だ。」といった具合です。
何故だか変わった瞬間に、その人達が奈良時代と、江戸時代の修験者だと理解できました。 向こうは、無形の存在でしょうから、今までの生き方を顧みて、罰でも当たるのかと 「何でも、お好きにご覧下さい。」と、いった具合に、ある意味捨て鉢になって寝ていました。
すると、次々と赤、白、金色の立派な無形の剣を下さったのです。
(つづく)
翌日、金剛蔵王権現を拝ませていただきました。 お顔は少し漫画ッぽいなとは思いますが、まあ、これはよりしろですから、あまり気にはなりません。
役行者(えんのぎょうじゃ)が感得した仏様はもう一柱あります。 それは、法起菩薩です。金剛山転法輪寺に体内仏のみが残っています。 御本体は、明治の神仏分離・廃仏希釈の折り、壊されてしまいました。
珍しい五眼六臂(ごがんろっぴ=五つの目と六本の腕を持つ)で、 金剛蔵王権現と同じ憤怒(ふんぬ)相の仏様です。臂とは、ひじのことです。 また、堺市の髙倉寺に法起菩薩曼荼羅図が残っているそうです。(堺市博物館寄託中)
私は、ほぼ同時期に転法輪寺の法起菩薩の体内仏も拝観しました。 こうした体内仏という、手法がいくつか残っているということは、 昔の人々は仏像や神像に無形の神仏が宿ることを感じていたんだと思われます。
三体の金剛蔵王権現は、中央のみが大きく左右は若干小振りに作られています。 暫くして判ったことですが、その前夜戴いた三振りの剣は、もとつきわみ図の赤と白、そして中央の金色だったのです。
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| 2010.10.13~10.14 【気功講義|特別講座】
位山登山について 1・2
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秋分特別講座の中で、皆さんとご一緒に位山に登りました。 何人かの方々がブログの中で書いていらっしゃるので、もう十分ご承知のことと思います。
60名を超える方々と共に、それも6ヶ月の赤ちゃんから84歳のおばあちゃんまで 幅広い年齢層の皆さんと御一緒できました。 急な山道を登ったにもかかわらず、誰一人筋肉痛が出ないのも毎回とは言え、不思議なことです。
日之本元極で企画するこうした行事は、必ず神の意図が働いています。 その場所場所の神々であったり、ある事柄を司る神々であったりします。
また今回のように、高次元の宇宙を預かる神々も含め、 6000柱を超える神が集結することもあるのです。
しかし、これらのことはそのとき特有のことであって、 誰かが適当なときに同じ場所に行けばよいというものではありません。 縁のない人が自分の都合の良いときに行っても何も起こりはしません。 都合を何とか付けてでも、その行事の時に行くのがよいのです。
たぶん、別な時に行かれるようなことがあっても、 良くて数神の神がお相手して下さるだけでしょう。 人によっては、骨折り損のくたびれもうけ になるだけかもしれません。
日之本元極の屋外行事は、ほとんど雨が降りません。 何十回かの過去の事例の中で、たった一回雨が降ったことがあります。 そのときも位山登山でしたが、前日の夜次のようにお話がありました。
「登るのにふさわしくないものが何名かいる。明日は中止にします。」 そして雨が降りました。
私は大急ぎで、遠くから来ている出席者達にも、 穴を開けさせないように、代替えの授業の用意をしたものでした。

そのときに出席しようと、最大限努力したのにどうしても参加できない場合もあります。 そんなときには救いの手が差し伸べられることもあります。 もちろん、普段の生活も養徳標準に則って努力している者に限りはしますが・・・
今回も、そんな人がいました。 「どうしても特別講座の時は、仕事を外せない。 だから、事前に高山に行くから、一日修練させて下さい。」 と言って、数日前に高山に見えました。
来た前日の夜中、お話があって、 「位山に登らせなさい。私たちが相手をしましょう。 祭壇岩で貫頂をしてあげなさい。」 と言われます。
私は同行できなかったので、スタッフの一人が一緒に登り、 祭壇岩に着いたところで、私が遠隔貫頂をしました。
そのとき、エネルギが大量にはいるのが判り、 朝食抜きで登り始めたにもかかわらず、貫頂が始まったら満腹になったということでした。
普段から、養徳に励み修練を積んでいれば、神々は縁を結んで下さいます。 二六時中、あなたは見られていますよ。
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| 2010.05.09 【気功講義|神仏について】
祝詞と想念
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神から、祝詞を 宣り上げるときの想念についてお話がありました。
「祝詞」を聞くときに、我々は言葉も聞きますし、響きも聞きますが、 その者の意識も同時に発せられて聞くことになります。
心底、人のために働くという意識があってこそ、この「祝詞」の意味は深くなりますし、 その言霊は
遠くまで届くわけです。
けれども、そうではなく、自分のために「祝詞」があったり、わたしのために「神の存在」があったりすると、 それでは本来の言葉の意味が聞こえてきません。
その意識の中に、「わたしが、私が…」というような意識が入り、その声が神に聞こえるようでは、 何とも聞きにくい祝詞になってしまうのです。 言霊の力、というのは、そういうものです。
言霊の力というのは、言葉によって、その力が発揮されます。 言霊を発する者の想念が、そこに反映されるということをもっと認識してください。 今、思っている以上に認識をしてください。
宣りあげる者の想念が大きな影響力を持つことになります。
普段の生活の中から、たとえ良い事をしたとしても「自分がしたんだ・・・」というような意識を消して、 ただひたすら人のために尽くす事です。
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| 2010.05.07 【気功講義|宇宙の法則】
諏訪大社の御柱祭に居る神様は・・・
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7年に一度、諏訪大社4社の四隅に立ててある柱が立て替えられる。 16本の大木を山から切り出し、運び出す作業が勇壮で、テレビ取材の格好の題材になっています。
このお祭りは何を意味するのでしょうか? この柱に纏わる神をお呼びしてみました。
四至神(みやのめぐりのかみ)です。私が四神、東西南北に分身して存在をします。 そして、中に囲まれた敷地は神の領地となります。その区域は安心して、神々が降り立つところとなるのです。
そこに安心して神々が降り立ち、この良き日を楽しみにしています。多くの者達が神を祀る仕事を大切にしてくれる。その時を過ごすために我々が、場をよく創ってお守りする仕事をするのです。 場を強める、場を高める、敷地内の空気を清浄にする、場を清める、エネルギーで満たす。そういう力が私にはあります。
諏訪大社の祭りについては、山にいらっしゃる神々が、降りたって一時を過ごす場を創るのが、我々の役割なのです。
しかし、永い年月のうちに誤解を招き、柱のみが珍重されて重きを置かれ、沸き立って荒れ果てた祭りになりました。この荒れ果てた祭り、荒れ果てた情景こそ、地上の末世の時代そのものです。
今回この祭りを最後に、我々が祭りに参加することはありません。
と、おっしゃいます。
四至神(みやのめぐりのかみ)は、伊勢神宮の内宮にも外宮にも祀られています。 双方ともひっそりと、内宮はほんの小さな木が一本、外宮には小岩が垂(しで)に囲われているだけです。神宮にお勤めの方に尋ねても判らない事があるほどです。
神のいらっしゃる領域に結界をはって、守るお仕事をされる神です。 日之本元極の「場創りセット」にもお力を貸していただいています。
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| 2010.05.05 【気功講義|宇宙の法則】
ひふみ神示
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もうすでにご存じの方も多かろうと思われますが、表題の文書について書いてみます。
この書は、昭和19年から36年の長きにわたって岡本天明さんに神からおろされたものとされています。
岡本さんが、最初成田の天のひつく神社(麻賀田神社内)に行かれた時に、右手に自発動が起き、自動書記(勝手に手が動いて書いた)で、ほぼ漢数字と記号だけで下ろされたものです。
本人にも全く意味がわからず、その後40数人の翻訳者が現れ、意味の解明がされていったそうです。
元々は、文字とは数字しかなく一文字に無限の意味を持ち合わせ通じ合っていたものが、細分化されてひらがなやカタカナが生まれ、さらにそれらが組み合わされて言葉が生じたのでしょう。 言葉が増えて細分化されればされるほど、その意味は単一化されて力を失っていきます。
言の葉の元は、「あ、い、う、・・・」などの一文字一文字の言霊で、その大本は 「ひ、ふ、み、・・・」などの数霊(かずたま)であったのです。
箱根神社
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| 2010.04.28~05.01 【気功講義|宇宙の法則】
カルマ(業=ごう)について―1~4
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宇宙には、「自分のした事はすべて自分に返ってくる」という法則があります。 今世(今生きている自分の生まれてから今までの過去)だけではなく、輪廻転生している自分の顕在意識が、 前世やその前にしてきたことも全て自分に返ってくるという事です。
それをカルマとか、業(ごう)とか、人生の借金とかいろいろな言い方がありますが、 要は全て自分で返さなければならないよう仕組まれています。
返さなければどうなるかですって・・・? 間近に迫っている次元上昇までに全て返していなければ、その意識は次元を上がる事が出来ず、消滅するだけの話です。
それではどうしたらカルマを返せるのでしょうか? いくつかの方法があります。
1.人のために働く 2.自分が苦しむ 3.自己を高めるために、有効な功法の修練をする 4.人からの攻撃に反論、反抗しない 5.自分に課せられている役割を認識し、その役割を果たす
これらの事は、日之本元極の「さとりの法(のり)」シリーズという講座の中で詳しくお話ししています。
でも、この4つの方法をもう少し詳しく、次回にでもお話ししましょう。
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先回、カルマの解消方法を、5つ上げておきました。
1.人のために働く 2.自分が苦しむ 3.自己を高めるために、有効な功法の修練をする 4.人からの攻撃に反論、反抗しない 5.自分に課せられている役割を認識し、その役割を果たす
これらをもう少し詳しく話してみます。
1つ目、自らを捨て、他人のために働く、このことが宇宙の発展に寄与します。ボランティアではだめなんです。 自分の居場所をしっかりと確保して、余力を人のためにというのではカルマは解消されません。 また、自分を犠牲にして人のために働いている人(人にそう思われている、自分でもそう思っている)でも、意外な落とし穴があります。それは自己満足です。 「私は人のために働いているんだ」という自己満足のためにそうした行為を継続している人もあるからです。 これも一つの我欲です。
過去自らの意識が、行ってきた報いで、金銭的に、病気で、精神的に、いろいろな形で自分が苦しむ事がカルマの解消になります。 ですから、病気になったときも「ありがたい。カルマを軽くする事が出来る。」と思えば 気も少しは楽になります。
上げておいた5つのカルマの解消方法を、もうちょっとわかりやすくお話ししています。
1.人のために働く 2.自分が苦しむ 3.自己を高めるために、有効な功法の修練をする 4.人からの攻撃に反論、反抗しない 5.自分に課せられている役割を認識し、その役割を果たす
3つ目には、我々がご紹介している「元極功法」のような世界でも数少ない有効な功法を修練して自分を高めうる事が出来れば、 その存在が周囲に三元エネルギーで影響を及ぼし、周りの人々の心身を向上する働きをします。
我々は他から、中傷されたり、物理的に攻撃を受ければそれに対して反撃をしてしまいがちです。 ですが、こうした他からの攻撃は自らのカルマを攻撃してくる人が引き取ってくれる行為に他ならないのです。 甘んじて受け入れれば、自分のカルマは何もしなくとも減っていきます(攻撃する人が貰ってくれる)が、反撃すれば倍返しになって増えていきます。 攻撃されたら、チャンスと思って黙(だんま)りを決め込みなさい。
反対に言うならば、人を攻撃すると、新しく自分がカルマを生み出す事になるわけです。 この宇宙では、自分の起こした事は、良い事も悪い事も、時期は判らずとも全て確実に自分に返ります。
5つのカルマの解消方法の解説の続きです。
1.人のために働く 2.自分が苦しむ 3.自己を高めるために、有効な功法の修練をする 4.人からの攻撃に反論、反抗しない 5.自分に課せられている役割を認識し、その役割を果たす
5つ目は、カルマ解消法の中でも一番重い、大切な事です。 この狭い地球に、なぜ70億にも迫らんとする多くの人々が犇(ひし)めいて生きているのでしょう? それはひとりひとり皆違う役割があるからです。 でも、その役割は本人(というか、その人の顕在意識)には、知らされていません。 人ひとりには、肉体を基礎として5つの意識が共存しています。 その人がしなければならない役割を知っているのは、その人の魂だけです。 その魂からの声をしっかり受け取り、自らの役割を全ったきまで果たす事です。 そうすれば、カルマなんか全て帳消しです。
ならば、どうすれば自分の魂の声が聞けるのか? 日之本元極の「さとりの法(のり)」シリーズの講座が教えます。
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| 2010.03.10 【気功講義|生き方】
甘えさせて 甘やかさない
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高山市立宮小学校の田中校長先生が、「がりゅう通信」の中で、二年前のある講演会でのお話を紹介してみえます。
『「私の妹はとっても可愛い三つ子です。それでお母さんは毎日朝から晩まで赤ちゃんのお世話で大忙しです。だから私は少しでもお母さんが楽になるように自分のことは自分でしっかりやったり、お手伝いしたりして頑張っています。」という内容の「私の妹」と題する作文で、ある三年生の女の子が文部科学大臣賞を受賞しました。
東京での授賞式の帰路、お母さんが「すばらしい表彰式だったね。実はお父さんから、ご褒美に何でも買ってあげなさいとお金を預かっているの、何がほしい。」と聞きました。 暫くして「何にもいらないよ。」と女の子が応えました。 「遠慮しなくてもいいんだよ。何でも言ってごらん。」と再び聞きました。 しかし、「本当に何もいらないよ。」と相変わらずの返答です。新幹線からバスに乗り換え、降車する近くになって初めて「お母さん、おんぶして」と囁(ささや)きました。
さて、家に帰って、赤ちゃんを寝かせた後、お母さんは娘をおんぶして近くの公園へ散歩に出かけました。 暫くすると、お母さんは首筋に生暖かいものが流れてくるのに気づいたそうです。 そして、お母さんは、 「ごめんね、ごめんね。」と娘を抱きしめ、親子で泣き合った。』
と、いった内容です。 最近、自閉症などのお子さんやお母さんと、ご一緒することが多く、子供への接し方について考えることも多々あって、胸を打たれたお話でした。 むやみに何でも買い与え、『甘やかす』のではなく、本当の意味で子供が甘えなければいけない時期にしっかりと『甘えさせて』あげたいものです。
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2010.01.08~01.20 【気功講義|伝統】
注連縄(七五三縄)とは何か? -1~10
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あけましておめでとうございます。
新年になって、神社に初詣に行かれた方も多くみえることでしょう。神社に行って普段あまり気にもしないことですが、必ずどの神社でも張ってある「しめ縄」について、お話ししてみましよう。まず一般的にはどういうものとして定着しているか、「注連縄とは何か?」について、辞書や百科事典(ウキィペディアも含む)等から抜粋しました。
◎ 広辞苑 第一版(岩波書店)
標縄、注連縄、七五三縄、(尻久米縄の略という) 内外の境界または出入り禁止のしるしに引きわたす縄。特に神前または神事の場にひいて清浄な地を区画するに用い、また、新年に門戸に張って禍神(まがかみ)が内の入らぬようにとの意を示すもの。左捻を定式とし、三筋、五筋、七筋と、順次に藁の茎を捻り放して垂れ、その間々に紙四手(しで)を下げる。しりくめなわ。しめ。七五三。注連。章断(しとだち)。 {付図は省略}

◎ 平凡社 世界大百科事典
『しめなわ』
神域など神聖な場所を限って不浄悪穢の侵入を防ぐ縄。標縄、七五三縄とも書く。記紀では〈尻久米縄しりくめなわ〉〈端出之縄しりくへなわ〉と書かれている。
《万葉集》の歌にも、一定の区域を占有・隔離する意味でシメという言葉がすでに用いられており、〈標〉のほかに〈印〉〈縄〉などの文字が当てられている。
シメは占め〈占有〉の印であり、印之あることによって占有の状態を示したものである。 神域に張られたしめ縄は、いわば神の〈結界占地〉を標示するものとなっている。
民俗のレベルにおいても新年に村境や門口に張ったり、神社や神木、磐座などに張るなどしめ縄の登場することは多いが、いずれの場合も、なんらかの意味で内と外を区別するものである。
ふつう内側は浄域、外側は不浄域あるいは俗域と考えられている。
朝鮮のクムジュル〈禁縄きんじょう〉をはじめ東南アジア一帯にもしめ縄に類する境界標示装置が見られる。
[朝鮮] 朝鮮ではクムジュル(禁縄)、ウェンセキ(左縄)などとよばれ、主として中部以南地方にみられる習俗で、稲作文化の文化要素として日本の例と共通する点が多い。
通常の縄とは逆に左よりになわれ、紙や帛、枝葉などがつるされる。
家庭では子どもの出産後、3週間までのサムシンハルモニ(産神婆)をまつる期間に家の大門や戸口に張りめぐらされ、男児の場合には唐辛子や木炭、女児の場合には紙、松葉、木炭などをつるして、喪礼中の不浄な者の侵入を防ぎ、火と食物の持ち込み、持ち出しを禁じる。
牛馬や豚などの家畜の出産に際しても同様の儀式を行う地方もある。このほか、家庭や村での巫儀や告祀など重要な儀礼を行う際にも張りめぐらせ、同じく呪的効果をもつ黄土をまくこともある。
村の祭りの祭場となる神木や祠の周辺、祭官の役目を行う人の家などでもしめ縄を張りめぐらされ、やはり黄土がまかれる。

◎日本民俗事典 大塚民俗学会編 S47弘文堂
しめなわ 注連縄
特に神聖な場所を限り他と遮断する縄。標縄とも書く。種々の形式がある。
新藁の端を少しずつ残して綯い、その数を七・五・三とするために七五三縄とも書く。 内と外を区別し、出入りを禁ずるために境界に張って神聖の表示とする。今も村境に引いて、外から悪気が入らないようにするところがある。
群馬県赤城山の西南麓地方では村境の注連縄を「八丁じめ」といい、その外に出る時は用心してものを言えと言った。 平常も張っておくのが普通であったが、村祭りや正月に張る所が多い。
それも後で取除くことをせず、放置しておくために、古いものは腐朽に委せた。 やがて神社の入口または屋敷の入口に張ったり、さらに本殿の前とか家の戸口に張るようになり、今は神社でも神前に張るように、家でも神棚や床の間に張るようになった。
南伊勢から志摩地方では境内の入口、鳥居などに一年中張ってあるし、個人の宅でも、特に神職とか祭りの当番の屋敷の入口などに年中を通して張っておく。 ことに神前とか幣物を入れた唐櫃などには注連縄を張り、個人の宅でも神棚や霊屋など多くは一年中張ったままにしておく。
南勢地方の民家では新しく葬式を出すまでは除去せず縄の数で不幸のなかった年数が分かるという。それも町屋では年々正月に新しく取換え立派に飾ったものとした。 ことに近畿地方では新年の注連縄に農具や産物を模したものを吊って、農作業を祝福した。 (原田敏明)

◎ 神祇辞典(大正13年東方出版)
シメナハ(注連縄・標縄・七五三縄)
社殿の四周、又は、民家の門戸等に懸けわたして、内外を區劃する標(しるし)の縄。
もと尻久米縄(端出之縄)といひて、 藁の尻を断ち切らずして、そのまま込め置きたる縄の義なりと云ひ、 又、占有の義にして、縄を延べてある地域を我が領となすによる名なりとも云ふ。 略して「シメナワ」とも「シメ」とも云ひ一に日御綱とも云ふ。 之を飾るを注連飾と云ふ。手力男ノ神、天照大御神を天ノ石窟より引き出し奉りし時、布刀玉ノ命、尻久米縄を以て、これより内に還り入り給ふなかれと云いし故事に基づき、後世、神事には凡てこの注連を引渡す習ひとなれり。
注連縄には、その形によりて、 前垂れ注連・鼓の胴・大根注連・牛蒡注連・輪飾り豊年等の種類あり。 何れも新しき稲藁を左綯いに縒りて作り、これに紙垂(シデ)を挿みて垂る。
「しめの子」の数、紙垂の向方等、種々の方法を唱ふるものあれど、必しも拘泥すべきにあらず。 又、各社古来の慣行によるものもあり七五三のしめの子を、七は天神七代の形、五は地神五代 三は三貴子に象ると云ひ、七五三は併せて十五也、天道は十五にして成る也、など言へるもあれど、神道名目類聚抄に、或説曰縄は正直の儀、端を出すは質素の體なり、、、
七五三等の数の事は、後人の附會なりと云へるを信ずべしとなす。 その懸方は、綯い始めたる方を本とし、上位(神前に向かいて右)になして懸くるを本義とす。 注連縄は神事の神聖を保つ表徴として、最、人目を引く物なるにより 神社等にありては、平素、常に新しきを懸くる注意、肝要なりとす。
{付図は省略}
◎ウキペディア
注 連 縄 の
型
しめなわを七五三縄とも書く。〆の子の藁を七本、五本、三本と垂らす事による。しかし、現在は見ることは少ない。
常時掲げるものより、祭礼の時に用いる注連縄に見ることがある。
注連縄の型には様々なものがある。
一般的なものは、どこの神社にも見られ、地鎮祭などで四本の竹に張り巡らす前垂れと呼ばれる注連縄である。 注連縄の型には大きく分けて、左末右本、左本右末とがある。
一般には左末右本である。これは社殿に向かって右を上位とし、綯い始めを右にすると事による。出雲大社では写真に見られるように一般と正反対の左本右末である。縄の綯い方も、左綯いと右綯いがある。 左綯いと右綯いの縄を2本併せて張るところもある。左綯いが本来とされているが、右綯いは20%程度ある。 注連縄には和紙をジグザグに折った「紙垂」(しで)を幾つか下げ、又、藁を束ねた「〆の子」を下げる。 縄の太さも前垂れの細い物から、出雲大社のように極太いのものまで、いろいろあり、「紙垂」や「〆の子」の形にも様々なものがある。
注)各所アンダーラインは、増田による 本来の意味の一端が残っている部分と言えます。
5,3,7。中央に5、左に3、右に7。これが正しい置き方です。意味が良く判らないかも知れませんが、それが「しめ縄」の正しい表現の仕方といえます。右から、7、5、3、と読んでしまいますが(現在は文字を横に書いていくとき、西洋式に左から右に書いていきますが、以前の日本では右から左に書きました)、これは、正しい置き方ではありません。常に中央に来る5が重要な数字です。
縦に見るときには、5が始めに来て5、3、7と見るようになります。正面から見たときには、中央の5。縦一列に見たときには、5を始めとして、その数字が並びます。
5,3,7は重なって一列になるときも、5が最初で、3が真ん中で、7が最後に来ます。5、3,7この数は、約束事が決められた重要な数です。
これは、神のリーダー的な位置を示しています。5の神が中心になって、この場を守る。この場を指名して守ることから、はじまります。神の順列というのは、リーダーとして働くという意味であって序列ではありませんが、重要な意味を持ちます。
必ず、5の神が最初に来るような、見方をすることです。その「場を守る」約束事を持った数字の神の配列なのです。7、5、3と読んでしまうのは、世間の人に分かりやすいという点で了解されてはいますが、神の側から見れば、5が最初に来る読み方が正しい読み方です。
数には、約束事が決められています。この数によって、我々人にも約束事として知らされていました。すなわち、ここは神々が占める土地であるということの約束事をです。占有する地、空間であるという意味です。しめ縄というのは、「しめる占有地」のような事柄の意味です。その中には5,3,7という約束事の言霊が秘められています。5,3,7が、「さん、ご、なな」というような縄の表し方になりました。しかし、3,5,7という縄の本数に意味はありません。神々の約束事です。神々から観ると神々は中にいますから、神々が中から観て、正面が5、左が3、右が7、縦に現すならば、5,3,7という順列です。
人からの向きとは、神々からの向きとは全く逆ですから、右の位置と左の位置はどちらでも意味がありません。神々の約束ごととして「ご、さん、なな」という数霊が存在していて、その数霊の約束事によって、神々は、土地を占有するということです。

七五三縄の約束事として、5・3・7の神がいます。七五三縄が、張り巡らされた「ところ」をまもる約束事をする神の役割があります。
別に、四至神(みやのめぐりのかみ)の存在があります。四至神(みやのめぐりのかみ)は、「場を創る」「場を守る」役割があります。また四至神は、七五三縄と共に働くこともありますし、それ以外に独自に働くこともあります。指定された場所を巡り巡って、回り回ってきれいに四隅を浄化し、四隅から憂いを処理して、祓い清めの意念をもって、働く神です。七五三縄とは、また意味が違います。ともに、活動することも充分にあります。
四至神(みやのめぐりのかみ)は、伊勢神宮の内宮、外宮共に、境内に本殿とは別にしてひっそりとお祭りされています。

七五三縄の役割は、本来は七五三縄で囲われた場所を祓う。そこに滞在して、そこから祓うことです。七五三縄で囲われたその場が、重要な場所になります。その場所とその周囲を中にいる神々が祓うということになります。
しめ縄の意味を、今の人々は、そこから神が出ない、出られない場所というように表現していますが、そうではありません。そこを神々が占有している場所だと理解してください。 占めるという表現は、しめい、しめる、しめて、というような、神々の専用する土地であるということを示す言葉です。
上記の「しめい
」はしめて、かこう(占めて囲う)と読めば分かります。これらの言葉もすべて、漢字の熟語として捕らえると誤りが起こります。伝えたことは、すべてひらがなで読めばいいのです。
今では造られているほとんどのしめ縄が、この5・3・7の意味がわからず、只紙四手のみを垂らすに留めています。そしてその占有した土地は、「しめ縄」にて完全に囲い、年中ずっと囲っておくことが必要な訳です。正月やお祭りの時だけのものではありません。現在では本来の目的を失って、形だけのものになっていることは悲しいことです。


注連縄(しめなわ)の豆知識
長さ8m。左が本、右が末で一般の神社と異なる。左綯い。
しめなわとは何だろう。
「なわばり」を侵す、「なわばり」争いなどと云われるように一本の縄が境界を示し、占有のしるし、立入禁止のしるしを表す。
神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。
この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。 又しめなわには清浄・神聖な場所を区画するため引き渡される。 これが神社などに掲げられる意義である。従って神社のみならず、巨大な岩や樹木、清浄な井戸、瀧、寺院にも掲げているところもある。 正月、門松とともに戸口に注連飾りを置くのも、上述の意義より家の中に悪霊を入れず、穢れをさり無病息災・家内安全を願ってのことである。
右綯いの例 左末右本。
しめなわは注連縄、標縄、七五三縄、〆縄、などと書かれる。 私どもが神社に参拝するとき、鳥居や拝殿には注連縄が掲げられていても、注連縄にはあまり気づかないことが多い。 しかし、よく見ると細いものから出雲大社のような太い物まで、太さにはまちまちであり、太い方が右であったり左であったり、撚り方も左綯い右綯いと違いがある。
それぞれの神社の規模に見合った注連縄が飾られ、神域の森厳な雰囲気を醸し出すものである。 |
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2009.11.3~11.11 【気功講義|刻(とき)と所】
かのととり のときが 来ました-1~3
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一二三(ひふみ)神示には、辛酉(かのととり)の刻とか、辛酉の日などと頻繁に出てきます。
かのととりとは、十干の中 きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと (木、火、土、金、水に各々、兄・弟が組み合わさって十干となる) の八番目にあたるものです。 酉は十二支の一つです。
この辛酉に何の意味があるのか、今まで誰も答えた者はいません。
日本書紀には、神武天皇(神日本磐余彦尊=かむやまといわれびこのみこと)は、
東征7年にして大和を平定し畝傍山(うねびやま)の東南、橿原(かしはら)に都を造り、天皇に即位したとあります。 在位76年、127歳という短命にて身罷(みまか)った。
この神武天皇即位の年、紀元元年(紀元前660年)2月11日を祝ったのが紀元節です。 (よって今年は皇紀2669年です) 神武即位のこの年が辛酉の年だったのです。 (つづく)
この年(2009)十月半ば、応神天皇よりお話がありました。
かのととりの 時が来ました。今日の午後、
かのととりの時が来ますから、告げておきます。この時を迎えると一つの山を越します。この「かのととり」の 時が来たことを告げる合図が、午後2時30分
頃にけたたましい音をたてて、割れるような響きを持って聞こえてきます。
顕界と神界の境目が割れるように開くときです。増田にこの時が来たことを伝えます。
このことが起きると、さらに、あなた方への導きが強力となり、事柄が動いていくことになります。今までの話はあやふやで、いつも結果が伴わなかったにも関わらず、今後は
結果が見えてくることになります。
顕界と神界との境目が割れて、地響きするような音がすることになります。
本日、2時30分。その事柄が起きてきます。
2009年十月某日午後2時30分―「かのととりのとき」が過ぎ、応神天皇より話がありました。
今日は、良き日を迎えて、また、一段と事が進みました。このことによって、さらに大きな成果が生み出されると確信しています。それらは、確信だけではなく結果として、この顕界に成果がもたらされることを伝えます。
先ほど今後私が日之本元極に張り付いて導くと伝えましたが、その通りです。
強制的に話すことはありませんが、導きを聞きながら、前に進んでください。
辛酉の時を迎え、この扉が開かれて、より強力に神界からの力が、及ぼされます。
かのととりのとき を迎えました。
何故、この辛酉の刻が重要なのか?
かのう と とり
叶う=始まり 最後
だからです。
歴史は未来より作られます。
顕界から見れば、
とり と かのう
になります。
次元上昇の、この世=顕界の最後が来て、
新しい世界の始まりが叶います。
このときの「かのととりのとき」というのは、顕界での暦ではなく、神界の暦に則っています。
ひふみ神示に言われる「かのととり」も同様です。
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2009.10.23 【気功講義|伝統】
門公尺と元極図
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台湾、香港、シンガポールなどで使われている風水の道具に魯班尺という物がある。 以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
魯班尺(ろはんしゃく)とは、風水術で使われる専門の道具の一つ。「風水尺」とも呼ばれ、物の大きさ、長さの吉凶を判断する物差しである。中国、春秋時代の魯班によって考案されたとされる。長さの目盛りは上下2段となっていて、上段が「門公尺」、下段が「丁蘭尺」と呼ばれ、計る対象物によって使い分ける。
赤い目盛りは吉、黒い目盛りは凶を示す。 門公尺(もんこうじゃく)
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* 用途:建築建物寸法 * 単位:5.4cm(刻み) *
記載文字:吉「財,義,官,本」,凶「病,離,劫,害」
丁蘭尺(ていらんじゃく) [編集]
* 用途:墳墓寸法 *
単位:3.88cm(刻み) * 記載文字配列例:、吉「丁,旺,義,官,興,財」、凶「害,苦,死,失」
二つの尺は、計る対象物によって使い分けます。 門公尺(もんこうじゃく) 建築建物寸法 (上段の目盛り、42.9㎝で繰り返す。) 門、玄関、扉、出窓、欄干、天窓、畳等の高さ、幅を測ります。
丁蘭尺(ていらんじゃく) インテリア寸法 (下段の目盛り、38.8㎝で繰り返す。) 家具、ベッド、タンス、椅子、枕からバッグや鉛筆など持ち物の寸法を測ります。
以前、このブログに書きましたが、私が元極学を始めた頃、自宅の屋上に5メートル大の元極図を描きました。この時、元極図の総ての寸法がこの尺の吉になるように大きさを決めたのです。
寸法を決めるのに、大変な時間を要したことを覚えています。
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2009.10.4~10.8 【気功講義|神社・仏閣】
福井・古麻志比古神社の神―1~3
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先月初め(2009.09)、始めて通る道を運転していた所、ある神社の前を通り過ぎた。 通り過ぎるとき、「おやっ?」と思ったが、行き過ぎてしまった。 通り過ぎてから、呼び戻されている気がしたので、少々「面倒だなあ。」とは思ったが、引き返した。
古麻志比古神社という聞いたこともない社であった。 「何用ですか?」と問うと、
古麻志比古神社に坐(い)ます私は、霊能者との交信を司っている神達を総括するような立場にあります。
と、応えられた。
人と神との交信を司る、霊媒師や霊能者たちは、我々の大切な伝達手段として昔から存在するものです。
神との通信手段を渡されている者の多くは、女性です。彼女たちは実に、率直に神の言葉を受け取り、それを相手によって、歪めて言うような者も中にはいますが、ほとんどの者達は、率直に伝えることが出来るようです。
もちろん出鱈目な伝え方をしている者には、すぐさま、神からの伝言は、されなくなります。そういう意味で、霊媒者として、長く勤めている者は、それなりの功績を挙げているのです。
そういう者が、数多く日本全国に存在すると云うことは、我々の交信手段を伝える上で、非常に有益です。その者たちを「巫女」と総称して私は、長く統括してきました。
というような、不思議な話があったのだ。 (つづく)

私は、崇神天皇と縁が繋がっています。 崇神天皇の第二子です。天皇の継承権を持ちません。崇神天皇の二番目に生まれた子供です。神の子供として、重要な役割を与えられて、その地位を果たすべく働いています。 (崇神天皇は、神として生まれ、人として生きられました)
私の仕事、霊媒師を統括する仕事は、あまりにも奇妙で、昔から神の仕事として人の世の中に、認められていません。ですから、民、百姓が困っている事柄を手助けして、助け上げるというような地域の仕事も受け持っていました。
地域で祭られること、祭る農民を守ること、このことも、祭られる神としては、重要な働きでした。
この神社には、私が存在していますが、土着の神々も大勢存在しています。 土着の神の仕事として、虫退治も大事な仕事です。その神を祭ってくれた神事ですから、それは、それで大事にしています。 (帰りてより調べてみると、この神社では故事言い伝えもそうであるが、神事として残っているものに、田んぼの虫退治のような祭の行事がある。)
神と繋がる仕事をしているのに、そうしたことに、少し不思議な感じがするかもしれません。
神の座としては、私はこの中で圧倒的に高い位置にいますが、祭ってくれる農民の施しを受けて、神社が祭られているので、その気持ちを大事にしてきました。
今まであなた方は、陰陽師達を指導する神とは、連絡を取ってきましたが、今後は霊媒師や巫女、いたこ達にも繋がり、仕事を拡げていって下さい。その者達に、私から縁を繋いでいきましょう。
この神とのご縁は、ここだけに留まらず、次に呼ばれた青森・恐山へと続くのである。

崇神天皇の第二子と言われても、全く見当も付かないので、調べてみた。
崇神天皇には、三人の后が居られ、御真津比売命(みまつひめのみこと)との間に六人の御子が居られる。その第二子に伊邪能真若命(いざのまわかのみこと)が記載されている。
この御子には違いないが、母親が違うと云われ、正しい母親は、意富阿麻比売(おほあまひめ)と言われるそうな。
今までも神々には、古事記、日本書紀などの多くの間違いや、故意に史実を変えて書かれていることを頻繁に指摘していただいている。
この神の兄、伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさちのみこと)が、第11代天皇 (実質13代天皇といわれる。初代神武天皇の前に、天香具山天皇、天岩戸天皇の二神が存在するといわれ、二神とも女神であられた。)垂仁天皇であらせられる。
奈良・天香具山(近鉄畝傍御陵前駅より東、約1.5キロ)の北側、南側にある天香具山神社、天岩戸神社の祭神(二神とも神社が荒れて満足に祀られていないので、今では橿原<かしはら>神宮にお移りになっておられる)が、それである。
それにしても、伊邪能真若命(いざのまわかのみこと)の神には、思いがけずお声をかけていただいたことに感謝する次第である。
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2009.9.4~9.7 【気功講義|神仏について】
沖縄・首里城(1)~(3)
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先日、神々に呼ばれて、沖縄に行きましたが、その目的は主に三つ有りました。 一つは既にお話ししました沖縄の地に染み込んだ悲しみの想念を祓うことです。 二つ目は、沖縄に土着の神々にお会いして、今後この地を、より一層のご守護・ご指導・お導きをしていただくようにお願いしてくることでした。
その土着の神々が、何処にいらっしゃるかと言えば、首里城の中です。 首里杜館でチケットを買い、守礼門、歓会門、瑞泉門、漏刻門、を抜け、広福門をくぐるとその正面に首里森御御嶽があります。
通常は、左にそのまま登って正殿にたどり着くので、皆その首里森御御嶽は見向きもせずに正殿にへと上がっていきます。 狭い土地を意志の壁で囲った何本かの木が見えるだけですから、無理もないと言えば無理もありません。
しかし、そのちんけな場所こそ首里城内で一番重要な所な訳です。 案内書には、「場内にある礼拝所の一つで、琉球最古の歌謡集『おもろそうし』に数多く詠まれています。神話には、『神が作られた聖地である』と記されています。」 とは、書いてありますが、全く祀る意識も、敬う意識も感じられませんでした。
古くの人々は判っていたのに、長い年月の中でその尊い意識は変節してしまったようです。
ここにいらっしゃる神々に沖縄のご守護などをお願いすると、代表の神が次のようにおっしゃいました。
あなた方元極功法を学ぶ者に、幸福を渡す役割を我々が果たすことになります。一度も訪れたことのない土地にこうして来てくれたことを心から感謝し、歓迎します。
我々が、ここ祀られていると言うよりは、われわれがこの地に来て、この地に住み着いていると考えてください。昔は、祀られていましたが、今ではほとんど忘れられているような状態です。
(注:首里森御御嶽は、首里城の中の小さな石垣の中で祀られている。三坪ほどの広さで、中には木が茂っているが、決して大木ではない。)
ここで、あなた方に幸福になる力を渡したいと思います。首里城の広福門をあなた方が、くぐってここに来ました。広福門をくぐったからには、我々はあなた方を幸福にします。 もちろん、このことは有史以来定められていたことです。
あなた方に渡した幸福は、また人々に渡して、次から次に幸福を拡げていってください。
神々にこうしたことを言っていただいたからには、我々も更に修錬を積み重ね、世の中の為に貢献出来るよう頑張らねばと、心を新たにしました。
琉球王朝の国王で、神になった方がいらっしゃいますかという私の問いに、 「沖縄の2代目が神になっています。その他には、神になった国王はいません。」 とのお答えでした。
首里城横すぐ近くの弁財天堂にも、神様はいらっしゃいました。 「このように、見窄らしいところへよく来てくれました。幸福の力が与えられて、幸福の力を采配することになります。この力を使って、より多くの人を助けてください。あなた方の力に期待しています。私が多くのことを話す立場にはありません。 今回は、幸福の力をあなた方に首里城の神が渡すという大役を得ました。 首里城を支える神の一人として、私はここにいるだけの存在です。」
「狭い、むさ苦しいところに、来ていただいて光栄です。 あなたがたが、来られることは、知らされていました。とても嬉しいです。 沖縄で眠って、働く時を待っていた神々とともに、終末の時の仕事を成し遂げて、働くことになります。 また来てくださったときには、もう少しもてなせると思います。本日は、強風のなか、雨もふるのに、よく来てくださいました。」 このときには、沖縄地方に台風8号が来ていました。沖縄の地を祓い清めるには、強風と大雨が必要のようでした。
この台風は、その後台湾に上陸し、六百人を超す死者と、数百人の行方不明者を出す程の大型台風でした。(8/15現在の報道による)
「このことによって、我々はもちろん、沖縄でその形示しが行われたことを光栄に思っています。沖縄の地から、広く世界に拡がっていくことを願っています。」
神の願いは、あくまでも人々の幸福だということです。
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2009.8.10~8.17 【気功講義|伝統】
御札、霊符、呪符、護符(1)~(6)
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御札、霊符、呪符、護符などと言われているものが有ります。 神社などで求める、お守りやお札もその一つです。 これって効果があるのでしょうか?
そして、誰が書いても(作っても)同じように効果的なのでしょうか? あまりあれこれ考えないで買ってきますよね。
このお札について今日はお話ししてみたいと思います。
色々調べてみると、仏教、神道、修験道、道教、神仙道、儒教等、宗教、宗派に寄らず 存在するようです。しかし、皆その方法は違い、それぞれの手法や描き方、作法があるようです。
そこで、御札に詳しい神様というふうに呼んでみました所、あの「安倍晴明」の神が出ていらっしゃいました。
ほんとかな?とお思いになるかもしれませんが、そのお話をお聞き下さい。
御札に詳しい神様というふうに呼んでみました所、陰陽道で有名な「安倍晴明」の神が出ていらっしゃいました。以下、「安倍晴明」の神のお話しです。
このお札を使う方法は、私が広く世の中(日本国内)に広める役割をしました。 それは、間違いではない事なのですが、それまでにも、多くの神々が無形の形で結界を作るというようなことを、すでに実践してこられました。
その実践してこられたことを有形の札などで示しただけのことです。 私が示したことを僧侶や力ある者、修練者等が真似て拡げていきました。 神道における禰宜や権禰宜もその仲間に入ります。 山伏に代表される修験者たちもそうです。
それらは、多くの受け入れられるものを作り出しました。 私がしたことが広く拡がったのは、流言によって、人々に受け入れられてひろがりました。 宗教心があっても宗教が拡がらなかった日本において、うわさによって、札を使う因習が拡がりました。
そして、おおくのものたちが私のもとで習うことで、札を広く広める役割が果たされました。今日、秘密裏に使われてきた札の類は、このほかにもたくさんあります。 多くのものに教典として授けたという点で、意味があったのだと思います。
もちろん、間違いも拡がりました。
陰陽道で有名な「安倍晴明」の神のお話はつづきます。
現在、霊符について研究している者達について 彼らの殆どは、単なる意識の収集家、紹介者です。 多くの事柄を学び、それを紹介する役割を十分に果たしている者も居ます。
しかし、彼らに、力があろうはずもなく、彼ら自身にも、自らが力を発揮している等と思うそんな気持ちは持ちようもないでしょう。そこのところは、有る程度、この道をまじめに進もうとするものには判ることです。
問題は、何も分からず自分にも出来ると思う輩(やから)達です。
さて、霊符、呪符などと呼ばれるものは、どのように働くのか、これについて話しましょう。 札には、込められた想念が働きます。札に込められた想念が、働くときには、その想念にに力が無ければ出来ません。
宗教、団体、宗派、色々やり方、書き方が種々有るなれど、それら手法には、効果、働きの強さなどは、何も関係がありません。書き物の形も関係が無く、何を書くかも関係が無く、書く為の作法や、どの宗教、団体に属しているかも、全く関係がありません。
その想念に力が有る無しに関わって、想念がどう働くかも、札に込められた、書いたことに込められた想念、その想念の強さが全てを決定します。
御札、霊符、呪符、護符などの道理が、全て書く者の想念に寄ることは前回まででお話ししました。
もちろん、想念を込めて書くことは、言葉にも通じます。 その言葉を現そうとする想念こそが、言霊という力なのです。
御札に功力があるとされるのは、書く力、言霊の発する力が、実現させようとする想念が神界に届き、神界で実現されて、願いが叶うことが、その札に込められているからです。 その想念の力が強ければ強いほど、想念を持つ者の力が強ければ強いほど、結果は実現する事となります。
思ったことが実現する力、日之本元極の功法と同じ事が、その札で行われているということです。
その札に託す思い、その思いの強さ、その者の力によって、札の力は、左右されることになります。
御札の効果というものが、書く者の想念の強さに寄ることが判りました。 その他に効果に影響を与えるものがあるのでしょうか?
その1 札の書き方によって、効果が変わるのか 丁寧に書く、想念が塗り固められる、想念がより強力に働くという点では、丁寧に念を込めて念じながら書くことは、効果が上がります。 念じる力が強ければ強いほど効果が上がります。また、言霊の力を使えばさらに力が上がります。金線(元極功法上級修練者には頭頂部より中空に向かい、功力に相応した長さの金線が延びる)を使って、言葉を書くならば、他の力、言霊も数霊も応援する神々が寄り集まってくることになります。
強い力で書けば書くほど、それは変化をもたらすことが出来るでしょう。
その2 道教、仏教、神道等、御札を書くのに、宗派による違いはあるのか 想念を持って、事柄を実現させようという者(効果を顕すのに手伝う神)の系統が違います。力を与えている者の系統が違う訳ですが、結果として、その札の効果が違うかどうかは、その想念を働かせる者の力に応じて変化していきます。
つまり、仏教ならば、何とか菩薩や如来とかが実現に向かい手伝うし、神道ならば、日本の神々、例えば天の御中主神や国の御柱神が手伝い、道教であれば、太上老君や玉皇太帝といった具合です。
依頼された神が、その札を書いた者や、使う者の力や品性、徳性を考慮して、手伝うか否かを決定するのです。 宗派による違いではなく、書く者、使う者、その者の力と品格によって、相違が出てきます。
宗派によって、書き方が全く違うことは、すでに分かっていることです。 日之本元極功法は、すでに、言霊の力、数霊、色霊の力を持っています。そして、全ての神々に通じています。
その力を持て、そこに全ての力を生かそうとして札を創るならば、別段、色を使ったり数を使ったり、言霊を使ったりしなくても日之本元極独自の方法でそれが叶うことになります。 日之本元極には、道教、儒教、仏教、諸子百家、更に神道、キリスト教などあらゆる宗教諸派に拘ることなく、伝統的に全ての神々を祀ることを遂行してきた結果、全ての神々が力を貸して、協力して下さいます。
よって、日之本元極にて作成されたものであれば、簡単なものであっても、それは大きな効果を現すことになってきます。 それらの効用を駆使し活かされたグッズが、カードや、場創りセット、龍の旗等なのです。
私が、初めて自分の書いたものから三元エネルギーが出ているのに気がついたのは、15年位前、山梨の甲府、甲斐一ノ宮浅間神社に行ったときのことでした。
一ノ宮とは言え、狭い神社で着いたときは少しガッカリしたのを覚えています。 せっかく来たのだからと気を取り直し、お参りを済ませて社務所で御由緒書きを戴いてきました。
戻ってきてから、ゆっくりとその後由緒書きを読んで、御祭神などを見てみると、「木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)」と書いてありました。 この頃は、まだ神様のことなど殆ど知識が無く、 「ほう~、難しい字だなぁ。」 と、側にあったボールペンで紙に一度その「木花開耶媛命」という字を書いてみたのです。
書き終わった後、何気なしに、その紙の上に手が来たときに微かに暖かい感じがしたのです。 「あれ~?」 と思い、次々に知っている神様の名前を書いてみました。
そうすると、神様が違うと、その手に感じる暖かさだとか、痺れるような感覚に微妙な違いがあることに気がつきました。 「おお~、神様によって出てくるエネルギーに違いがあるんだ。」 妙に感動した記憶があります。
その後、元極功法の修練を積み重ねるに従い、 書いたものから出てくるエネルギーは、ドンドン強くなっていったのです。
(完)
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2009.7.28 【気功講義|伝統】
老子よりの話 (1) (2)
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先日、久しぶりにリニューアルした「階ふた」の講座を開催しました。この「階ふた」に上がれる者は、ほんの限られた「徳」の高い者でしか有りませんが、その先「階み」に至っては更に更にハードルが高いと言わざるを得ません。
随分前に「階み」の講座を開催するときだったかに、老子の神に教えを請うたことがありました。「階み」功訣(6)に関連した内容のことです。
ふたえみえ さんげんわする めぐりみち
やえやまこえて めぐみのはたえ
む ひと ふた み よ いつ
むゆ なな や ここ たり う
日之本元極の功訣は、一音一音の響きが、その無限の効用を発揮するので、全て平仮名で書かれています。もし漢字にすれば、その漢字の持つ限られた意味に効果が限定されてしまうからです。
敢えてこの功訣を漢字にすれば、
二重三重 三元和する 廻り道 八重山越えて(肥えて) 恵みの畑へ(二十重)
というようなものになります。
これなら誰にでも、意味は分かります。
三元が、いくつかの体内の道(経絡など)を通り、また多くの難関(病んだ臓器など)身体の中を廻る
という意味もありますが、ここでは、
二重三重の数々の山を乗り越えて、ようやく恵みを得ることが出来る畑へ来ました。しかし、更なる恵みの畑へは二十重でもあるのです。ここから更なる畑への旅立ちとなるというような意味になる訳です。だから、これからも本当の意味での苦難が続くという意味に取れます。
漢字にしたら、上のように誰にでもその意味が分かることだけでなく、二重の「ふ」だけでも、無限の意味合いを持ち作用させている事を知るべきです。
~~~~~~~~~
2007年のこと、「階み」の講座を開催するときだったかに、老子の神に教えを請うたことがありました。本題は、「階み」功訣(6)に関連した内容のことでしたが、同時に次のようなこともお話しして下さいました。
私は精神的な融和を図ること、精神の状況を穏やかにすることについて、説法をしてきたと伝えられています。私は、精神的な事柄だけではなく、精神を定める、心を落ち着けることで気が満ちて充満するということも発見しています。そして、時を穏やかに過ごして、落ち着けると気が満ちてくるという身体と精神の気の様子についても発見しています。
常に、身体的苦痛は、心理的苦痛を伴い、心理的な苦痛は、身体的な苦痛を伴うという二輪の関係であることを強く指導してきました。
宗教は、心と身体を穏やかにするものであり、宗教そのものの是非ではなく、信じる気持ち、穏やかな万物を尊ぶ気持ちこそがそのことを実現するのだと、私も解いているところです。
(元極功法の中でも精神的な迷いや、混迷が三元を浪費することは強く説かれています。)
これからは、あなた方の説いている「神」の存在を母として、大地として、全ての事柄が動いていくことになります。
宗教の言う特定の神のみを尊んだり、他を排したりするのではなく、広く大きく全ての神の存在を肯定し、導きを仰がねばなりません。
大地が育てた精神をあなた方が受け継いで、その精神の元に、あなた方が活躍してくれることを喜びに感じています。
(歴史的には、老子は孔子より先の人であると伝えられていますが、一連のお話しの中で、儒教の孔子や孟子の後に生きた人で、それら先人の導きによって教えをまとめて書物にしたのですと、語っておられました。)
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2009.2.2 【気功講義|伝統】
祭酒(さいしゅ)
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日本に残っている直会(なおらい)によく似た慣習が、中国にも古代から有りました。
祭酒と言います。宴会の時必ず最上席の者が、まず最初に酒を供えて神を祀ることをします。つまり、その酒宴で飲まれる酒は、直会同様、神のお下がりであるということです。
この習慣は、孔子、老子の頃には既にあったといいますから、今より2600年以上前から伝わっていることになります。
道教でも、儒教でも神にお酒を捧げ、共に酒宴を開く事は喜ばしい事とされてきました。
お酒の好きな神々、さて・・・・どんなお酒がお好みなんでしょうか?
それは、また次回にでも・・・

photo by sigma DP1
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2009.2.1 【気功講義|伝統】
直会(なおらい)
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今でも全国多くの神社などで、お祭りの後に行われる行事に直会があります。神事が終わった後、神饌(みけ)
、神酒(みき)を下ろして頂く酒宴のことをいいます。
直会とは、なおりあいの略で、不浄を避け神事に慎む「斎(いみ)」の状態から直って、平常に帰る意味があります。
しかし近来、古くからの慣習の意味が薄れてきているようで、神を祀るという意識、神の御蔭を戴くという意識が希薄になってきているように思えます。己等のみが飲み食いしたいばっかりに、好きなだけ飲んでという場面も多いように感じます。
とはいえ、神々の多くは直会の本来の目的、ほのぼのとうち解けた人達との共存を望んでいるわけで、適度な飲酒によってそうした場の提供をして下さっているわけです。
昔から「御神酒を上がらぬ神は無し」と言われるように、神様方も大変お酒を、そして酒宴自体を愛していらっしゃいます。
度を外さぬように、ましてやビールの飲み過ぎで痛風になったり、日々お酒を浴びるように飲み肝臓を痛めたりしたのでは、その場だけでは済まなくなってしまします。
節度を持って、神との宴を楽しみたいものです。

photo by sigma DP1
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2008.10.31 【気功講義|伝統】
功法の伝統について
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元極功法は既に言及されている様に、人としての沿革において、中国、元・金代の太一道に端を発したものです。太一道で二十数代続いた後、明の時代、普善禅師により元極道へと道を拡げました。以後張志祥先生に至るまで、五代に渡って引き継がれてきました。
そして日本へとバトンタッチされたわけですが、この流れの中で、一貫して「一子相伝」の掟は貫かれてきています。
更に、道教から始まったこの教えは、道教という一宗教に縛られることなく儒教、仏教をも、その柱とし、諸子百家の長を取り入れ、短を廃し、功力を増してきました。
日本に継がれたことで、神道の奥深さも身に着け、万全の功法へと登り詰めたわけです。
この元極功法の伝統は、単に八百数十年の人による継承に留まらず、つまり中国から日本へという次元のことだけではないのです。これは、有史以前からの神の計画によって、神々の手で人を使い、世界へ広めるという事が実行された結果だということです。
この「階ひと」の段階でどうしても知らせておきたいことは、この功法の数々は、伝統的な手法によって伝えられたものであり、この元極功法は、神の意図によって脈々と受け継がれて、今、「日之本元極に引き渡された。」という点です。
それは、中国であるとか、日本であるとか、(そういう宗教的な土台は借りて使われいるものの)国、人、国境に関係なく脈々と受け継がれてきたということをしっかりと受け止めて戴きたいのです。単に、「中国の伝統が日本に受け継がれている。」だけではありません。
このことは、「世界に拡げる為の功法」として、もっと広く必然的な流れとして日本で受け継がれているのですから、国境を越えた功法であると認識して欲しいのです。

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2008.2.25 【気功講義|四方と左右】
「東・西・南・北」と「右・左」、そして「陰・陽」
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年に数回行っている特別講座の中で、今まで3回ほど高山市一宮町にある位山(くらいやま)に登りました。
位山は霊山として知られ、「すの神」が地球を創られるとき、ここを最初の地とお決めになり創造されたとも聞いています。
場を感じられる方には、その素晴らしさが判って戴けるものと企画したものです。
位山には、中腹にあるモンデウス・スキー場の直ぐ横に、「祭壇岩」という平らな舞台のような巨石があります。
古代から神を祭るときに使われた祭壇といわれています。
また頂上より少し下った所には「天の岩戸」と呼ばれる岩倉が存在します。
車で上れる「だな林道」の終点から頂上まで、登山道の両脇には巨石群といわれている大きな岩がごろごろと配置されているかのごとく繋がっています。
地球で最初に出来た位山に、
「すの神」
を始め、多くの神々が初めて地球という地に降臨されたと伝えられているのです。
その位山から日の出を望むとお考え下さい。
当然の事ながら、前は東、後ろは西です。
左が北で、右は南になります。
この東、西、南、北という方角を指す言葉は、どこから来ているのでしょうか?
前は日(一(ひ))です。
そうすると後ろは月(二(つぎ))なのです。
まず「一(ひ)向(む)かし」、これが「ひむがし」、「ひんがし」、「ひがし」と変遷したものと考えられます。
東
一
日
北・左・火 位山 水・右・南
月
二
西
後ろに月を背負い、「二(つぎ)」で、「二(に)し」となります。
神々は「日」に向かい、「月」を負い、左に「火」を従え、右に「水」を連れ添います。
この時やはり「右」「左」という言葉が発生しました。

祭壇岩

天の岩戸
「火」は垂直に立ちのぼります。その様を
「火(ひ)の垂(た)り」
と言い、
「ひだり」
に変わっていったのです。「水」の水平線は、
「水(み)の極(き)り」
(極とは2点間をピーンと張った状態を示す)と言って、
「みぎり」
に変化したものです。
東
一
日
ひだ・北・左・火 位山 水・右・南・みの
月
二
西
位山から東を望み、「ひだり」は「ひだ」です。「みぎり」なる「水(み)の極(き)り」に当たる地は、
「みの」
と呼ばれています。
「ひのたり」の方角に
「ひた」
があり、方向も「ひた」では混同するので、いつしか方角の呼び名は「きた」に変化したようです。よって「ひだ」という地名は、平仮名であって、現在使われている
「飛(と)んだり、騨(は)ねたり」
の「飛騨」ではないのです。少し前まで使っていた「斐太(ひだ)(文に非ず、言が太い、素晴らしい)」という漢字には、「言霊幸(さき)はう」の意味を持っていることから、響きでこれらのことが実現したことを良く表していると思います。
「水(み)の極(き)り」つまり水面には波が立ちます。「水(み)の極(き)り」から
「水(み)の波(なみ)」
そして「みなみ」へと変化しました。
この「きた」と「みなみ」の「き」「み」は、陽と陰を表しています。「いざなき」「いざなみ」の最後の「き」「み」のように、男と女、陽と陰を示しているのです。
これが「東・西・南・北」と、「右・左」という言葉の起源です。

「位山」と「ひだ」、この地は特別な所のようです。
大方の神社で、六月末日と大晦日に奏上される大祓祝詞という祝詞があります。
非常に長い祝詞ですが、神道の中では、一番と言って良いほど大切な祝詞として扱われているそうです。
その内容が良く判らないまま、そして伝えられる内に多くの間違いも生まれて、伝承され、奏上されてきているようです。その中に、
「・・・如此依(かくよ)さし奉(まつ)りし四方(よも)の国中(くになか)と 大(おお)日本(やまと)日高見(ひだかみ)の国(くに)を安国(やすくに)と定(さだ)め奉(まつ)りて・・・・」
という件(くだり)があります。
これを殆どの国文学者や、神道学者、神主さん達は「大和」の「日高見の国」と解釈しているようです。
しかし本当は、
「・・・如此依(かくよ)さし奉(まつ)りし四方(よも)の国中(くになか)と 大(おお)日本(やまと)
『ひだ』、『神』の国
(かみのくに)を安国(やすくに)と定(さだ)め奉(まつ)りて・・・・」
と読ませるのが正解なのです。
元の祝詞が平仮名であるもの(響きを平仮名に移した)を、無理矢理漢字を当てたが為の間違いと言えます。
旧飛騨にあたる高山市、飛騨市等の地域には、異常なほどに神社が存在し、現在404社(飛騨神職会発行「飛騨の神社」より)も残っています。
これでも昔に比べ、合祀(ごうし)した神社がかなりあり、減っていてこの数です。
私は以前、関東のある市に住んでいましたが、市内にある神社は10社に満たない数だったと思います。
「ひだ」の土地が、如何に神々と繋がりの深い土地かということが、良く判る数字ではないかと思います。
暖かくなってから今年の特別講座には、気の場の良い飛騨の神社数社を巡ったり、特に選定した「場の良い所」に皆さんをお連れする企画をしてみたいと思っております。
乞う、ご期待!!

ひだの霊峰「位山」 中央、最奥
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気功講義(29) 080210
ほとけ、ほっとけ、ほとけの役割
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ほとけ、ほっとけ、ほとけの身の上、ほとけの上にあるのは、むしろです。
むしろに座って、修行を終えたモノが、ほとけの身の上になり、先に進めます。
ほとけである者達が、全て先に進めるのでは、ありません。
ほとけの身の上とは、ほとけのうえにむしろがあり、むしろで修行ができたものが、身の上となり、進み上がって行ける、という仕組みです。
人から受けた功罪を、すべて無(む)にして、白(しろ)紙に出来るかどうか。それが、ほとけの修行です。むしろの上で、無に出来たモノだけが、先に進めるのです。
ほとけは、人の功罪を受けて、ほとけになった者達です。
人から受けた功罪を無にせず、根を持ってはいけません。「ね」を持つと、「ね」は蔓延(はびこ)って、「は」が腐ってしまいます。「は」とは、人生という修行をして、先に進もうとしている我々のこの世界のことを言います。
この世界で、我々は自分の過去世も含めて、自らの「功罪」の借金返済をしています。どうしたら借金を返すことができるか?
1.人のために働く。
2.自らが自然に病気、生活苦などの運命によって苦しむ。
3.人からの攻撃に対し反撃をせず、「無」にし、「白紙」にすることによって、攻撃する人に「借金」を肩代わりしてもらう。
人から攻められたりしたら、「ありがたい」と思い、感謝することです。そして人のために自分をどう活かすかを考えて生活し、修練することです。目では見ることが出来ないにもかかわらず、信じて下さる方々に、必ず元極の力は効果を発揮することができます。
日之本元極 亀仙人 |
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